異人たちとの食卓
八十年代の大林宣彦の映画に「異人たちとの夏」というのがある。
主人公の中年男が、かつて暮らしていた裏路地に迷い込み、少年時代に死別した両親と再会する。両親は死んだときから年をとっていない。夢か現実か、そんな三人がひと夏を共にすごすという幻想的な物語だ。
だが主人公は徐々に生気を奪われていく。最後のほう、料亭ですきやきを囲みながらの別れのシーンは、いつまでも余韻が残る。
この夏はアメリカから友人が帰国していた。
小学校からのつきあいで、映画監督になると言って十八で日本を出た。独立系映画を撮ったり大学で映画科の講師をしたりして、曲がりなりにずっと向こうにいる。
そういえば十九の夏休み、彼の実家に半月ほど居候していたことがあった。
そのときも彼は一年ぶりに日本に戻ってきていた。すっかり話し込み、夜も更けたので帰ろうとすると、今日は泊まっていけと言う。
二階の四畳半に布団をふたつ並べて眠り、翌日も朝から無駄話をして、意味もなく商店街をほっつき歩いた。
夜になると、
「お母さん、淳一郎今日も泊まっていくから」
勝手にそんな相談をしている。そのままなしくずし的に二週間、僕はその家に住みついてしまった。
長屋みたいに狭い家だ。両親に姉と妹。深夜にトイレに行こうと思ったら、眠っているみんなの布団をまたいでいかなければならない。
それでも帰ろうと思わなかったのは、たぶんそんな環境が僕には心地よかったのだろう。十代後半、自分の育った家庭にすっかり嫌気がさしていた時期で、よその家族が僕には幸福そうに見えた。
母親は最初こそ、
「自分の家だと思って何日でもゆっくりしていってね」
そんな他人行儀な笑みを浮かべていたが、三日すぎた頃には、
「はよ風呂入りや」
口ぶりがそっけなくなってくる。それさえも僕は、自分が家族の一員に迎えられた証拠だと勝手に解釈していた。
友人にとってはひさしぶりの実家暮らしだ。最初はよくても、身内にしかわからない長年の愛憎やわだかまりがよみがえって居心地が悪くなり、だから僕という異分子を必要としていたのかもしれない。利害関係が一致したのだ。
ところがある晩、十何回目かの夕食。
小さな座敷机を全員で囲み、僕はようやく気づく。
食器や醤油さしがひしめいている机の上、でも母親の前だけ妙にすっきりしている。おかずが一品少ない。
たまたまその日だけなのか、最初からずっとそうだったのか思い出せない。でも普通に考えれば、母親の取り分を僕が奪って食べていたということになる。
僕はその日のうちに家を出た。いたたまれないのとも違う、申し訳ない気持ちとも少し違う。正直あの時僕はゾッとしたのだ。ずっと気づかず亡霊たちと暮らしていて、突然我にかえったような、そんな気分だった。
友人と久しぶりに酒を飲み、ふとあの夏のことを話してみた。彼はまったく覚えていないという。
たしかに、あれは幻みたいなものだったのかもしれない。